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「しびれる」講義を聴いて

栄養学科 岩井邦久

 これが最後・・・という感覚は全くなく、約1時間のとても短い講義を聴いた。2月10日午後に行われた、学内外から大勢の人が聴きに訪れた松江一教授の最終講義のことである。
 まず感じたのは、いつもと違うスピード感であった。まるで先生の歩く速さのようなテンポ。いつもの噛んで含めるような言い回しや繰返しは殆どない。それはそうだ。40年余りの研究者・教育者としての歩みをたった1時間でまとめるのだから。ここまで話を絞るのに、どれほどの苦労をされただろう。きっと、聴きにくる人のことを思い浮かべては、その人にまつわる話や研究のことを盛り込んでいったのだろう。
 もう一つ気付いたのは、随分と津軽訛が薄まったことだ。松江先生と初めて話したのは、およそ15年前のこと。その当時、私はまだ東京の会社勤めで、先生からの電話を取り次いだ同僚は本当の津軽弁に接し、皆一様に「あの電話の人は誰?」と影でささやき、私は転職のことを言えずに困った記憶がある。
 松江先生は「あれ、それ」という指示語が多いことでも有名。これは誰もが納得するであろう。先生の「あれ、それ」が何を指すのかが分れば、その人は立派な松江研の一員だ。一方、「しびれる・・・」これも良く聞く表現だが、実は私は先生から直接「しびれる」という言葉をあまり聞いたことがない。恐らく、同じしびれる状態を共有していたから、あえて言われなかったのかもしれないと、勝手に解釈している。
 さて、講義のことは学科HPにも載っており、また松江先生執筆の連載もあるそうなので、ここでは、講義の後に行われた記念パーティーを振り返りつつ、裏話を紹介する。先輩、後輩から卒業生や学生だけでなく、企業関係者、はては韓国から、本当に広範囲にわたる人が集まった。それだけで多くの人に慕われる松江先生の人柄が分るのだが、その根底には先生の真に親身になって人に接する情の深さがある。例えば、産技センター時代に韓国から来た3人のリサーチフェロー。彼らを受入れるのに松江先生は自らアパートを探し、不動産屋やJSPと交渉し、来日直後から住むことに困らぬように準備をした。暮らしに慣れるまでは自分の車で送り迎えもした。せっかく青森で暮らすのだからと、弘前の花見、青森のねぶたを堪能させ、冬には八甲田にスキーに連れて行った (これには困った人もいたかもしれないが)。とにかくホスピタリティがすごいのである。
Party1
韓国から駆け付けたリサーチフェローの皆様

 また、先生には「教える」ことが最も似合っていた、まさに天職だと思う。それは学生に授業を教えることだけではない。研究でも、仕事でも、表現こそ違え、産技センターの方、後輩の方、企業の方などの多くのスピーチにそのことが滲んでいた。学問だけでなく、テニスでも。ある日、伊達公子のキッズテニスを紹介した番組を見たか?と聞かれたことがあった。続けて出てきた言葉が「ああゆう教え方もあるんだ・・・」。つまり、どうやったら上達するように教えられるか、を常に考えられていた。きっと、松江先生は高校や中学校にいたとしても情熱的で、誰からも愛される先生になっただろうなと、スピーチを聞きながら想像していた。
Party3松江研究室の卒研生よりお礼の言葉
Party2産技センターの方のスピーチ

 パーティーでは紹介しなかったことをもう一つ。今回、保健大の三味線サークルに演奏をお願いした。これは松江先生のたっての希望なのだが、何でも、先生のご両親が民謡好きで三味線や津軽民謡・手踊りを聞くと、なくなられたご両親や幼い頃の村の宵宮を思い出すのだとか。その思いに応えるとても良い演奏と唄だったと思う。サークルの皆さん、ありがとう。
Party4三味線サークルによる演奏

 書きたいことは山のようにあるのだが、特に人の縁というのは不思議なことを、今ここに綴るのが相応しいのかどうか分らない。何故なら、先生が4月からいらっしゃらなくなるということに私は未だピンとこないからである。ここに書き切れなかったことは、その後に気持ちの整理がつけばまた改めて紹介したい。
 それまで、先生、もう少し、今まで通りにさせて下さい。


【来週から、松江一教授による連載コラムがスタートします。】
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